総説

醜きもの、汝の名は、声優。
 声優の容姿に関する世間的な常識を沙翁風に言って見たならば、このようにまとめられるだろう。
 無論、佯狂のハムレットの言葉を、真に受けるわけにはいかない。声優は醜い、などというのは明らかにまともでない人間こそがいいそうな事である、という、デーンの王子の判断を、我々は断固として支持する。
 声優は、美しい。
 オントロジカルな水準では、それはもう疑い得ない。我思う、故に、声優うるはし。
 だからといって、声優のビジュアルな部分は一切顧みられる事なく切り捨てられていいとは言えないはずだ。写真には写らない美しさより先に、我々はドブネズミの尻尾の付け根の逞しい造形を讃美するべきだ。何が写真に写っているのかを知らずして、写真には写らないものの何たるかなど理解できようはずもないのだから。
 よって、我々はここに声優のビジュアルをその細部に至るまで味わいつくすべく、現代声優視覚文化研究会の設立を宣言する。
 以下に掲げるのは、現代を代表する声優十二人+αの身体の一部に、徹底的に拘った、我々の研究の、第一回中間報告である。(郁)

名塚佳織*肩

「今日も元気にショルダーファック!」
 名塚佳織スレにて、初めてこの言葉を見た時には衝撃を受けた。敢えて漢字に直すならば、肩姦であろうか。しかも、今日も元気に、である。毎日の日課なのだろうか。
 名塚佳織は、そのイノセントボイスと清潔さを感じさせるヴィジュアルで現在の若手女性声優の中でも群を抜くと言ってよいほど、無垢なるイメージをまとった人物である。小顔に比して大きな目、どこかエスニック風に深い彫りとはっきりした顔立ちがキュートな印象を与える。更に身長160cmの良いスタイルと完成された西洋人形のようでさえある。
 初めはそういった均整に目を取られてしまうかもしれない。しかし、決して忘れてはいけない。そのバランスを、きっちりとつなぎとめる土台。それは何と言っても、どっしりと広い、彼女の肩幅である。
 細身の身体は、幅広い肩へと拡散し、あまりに美しい逆三角形をなす。その上に整った小顔が収まっているからこそ、彼女の均整は成り立っているのだ。
 同時にその安定性充分の肩幅は、見る者に安心感を与える。彼女はよく、「ガタイが良い」と表現される。時に大きな存在に抱かれ包み込まれたいという我々の甘美な欲望は、そのどっしりとした身体を希求している。そこから伸びた太い腕も、きっと抱きしめられ心地抜群である。よく見れば利き腕の方が微妙に太いという筋肉の証も、通にとっては堪らないところだ。彼女はまさに、アニキなのである。
 見えなくなるほど遠くへボールを投げれる強い肩がうらやましくて男の子になりたいと望んでしまう必要は、もはや彼女にはないのだ。男の子に同一化せずとも、彼女は文字通りに男性と肩を並べて存在することができる。かつてこれほどまでに、女性の自然性を十全に実現しえた身体はあっただろうか。
「ショルダーファック!」とは、彼女の自然的身体を前に圧倒された時の、賛美と帰依の言葉である。(喰)

おっぱい座談会

郁 おっぱい自慢の声優は多々ありますが、その中で特段にフェティッシュorエロス、というとはたして、ってのが今回の議題です。
宮 今回は見た目重視なんですか? それとも声とのシナジー含めたり、声だけだったり。すなわち虚乳。
郁 そこだよね。声優の乳はそも何重視でエロがられるべきか。
E 見た目はきっとしてるブラとかでも違う。例えばしーたんは胸が普通に無い気がする。これはブラの関係で大きく見えるだけですよ。
郁 しーたんナバいんだね。乳辺ナバを寄せ集めればすごいが、気を抜くと全て流れ去る。いわば万物流転乳。
宮 しーたんのナバさは若さゆえもあるのでは。麻里安ちゃんみたいな。
郁 デカいだけなら板東愛はやはり。
宮 坂東も全体的にナバいだけでは。
由 ガタイがいいだけに見えるなあ。
宮 きみきみの乳を見たときのインパクトや、ますみんのような美乳感に欠ける気がするんです。
郁 で、デカけりゃいいの? という。
宮 そうですね。わざわざ声優の乳を論ずる意味というのもありますよね。
郁 結局それは巨乳声の問題になると思う。例えば浅野真澄は巨乳声で巨乳だよね。巨乳で貧乳声、貧乳で巨乳声、という事例はあるか?
宮 清水愛は貧乳声だなぁ。
郁 釘宮って貧乳声って言っていいんじゃないかな、とか。
宮 まあ貧乳声で貧乳ですよね。
郁 ナバが巨乳声だと思う人。
宮 よりけりな気がしますね。
E 井上麻里奈は貧乳声な気がする。
宮 いや、マリナは美乳だ。
E まりーなは乳は綺麗かもですけど大きくなくて乳輪は大きいですよ。
喰 マリナは乳輪小さい。そして青い。
E 小さいは兔も角青くないですよ。
喰 コゼットの頃は青かった。整形か。
E 染めたんじゃないですか
由 マリーナでかいと思うなあ
宮 たぶん、マリーナは局所的に巨乳なんじゃないかな。
郁 甲斐田裕子は巨乳声。
由 甲斐田裕子の声は乳よりもタッパに影響されてるのでは。
郁 体のデカさ・重さは声にもっさり感をもたらすからな。
由 体格からも巨乳感がでてしまうとなると、巨乳声の実在を疑えてくるのですよ我。
郁 そのもっさり感は胸郭に巨乳の重石が載ってるだけでも生じるから。
E 新谷は巨乳感のある声という意味においての巨乳声。
宮 新谷は両方あるよ。おそらく現在の新谷は貧乳声に近い。
よ でも、巨乳感ありますよ。もっさりというか、重たい感じが
宮 つまり隠された巨乳か。
ロ むらこは巨乳声ですか?
郁 ムラコは案外巨乳キャラ多いけど巨乳声とは思わんなあ。
郁 で。きみきみって巨乳声?
宮 声自体は巨乳ではない。
由 声だけ聞いていたら、巨乳だとは思わなかっただろうなあ。
ロ まあロリ声だしなあ。
E 通常は乳の中で反響してもっさりするはずの声が、きみきみの乳の中は何か特殊な構造になっているためにロリ声になる。
郁 ゆりしーときみきみって声は同じカテゴリだと俺は思ってるんだけど、ゆりしーって貧乳声? 胸結構あるけど。
由 声そのものが色々と貧しい感じ。
郁 本人にひっぱられてねえか?
由 少なくとも豊かではない。
郁 じゃあ二人とも巨乳だけど貧乳声、って事で。まとめると。声優の乳はデカけりゃいいってもんじゃなくて、ギャップによるインパクトエロスが欲しい。そのインパクトをもたらしてくれるのは声の貧乳感である。故にきみきみはやっぱり最強、と言いたいところだが、今野宏美ってどう? ロリ声ではあるけど。
宮 今野はがっかりしちゃうな。
郁 乳以外のビジュアルと声のイメージがきみきみは一致しているけれど、今野はずれてるのでインパクトがそがれる、というあたりか。
宮 あー、そうかもしれませんね。 郁 やはり、きみきみは今でも最強。

堀江由衣*モノ

 堀江由衣には、チンコが生えている。何故なら、堀江由衣にはチンコが生えていなければならないからだ。堀江由衣のチンコ、あのトップアイドル声優股間のスキャンダラスな昂まりが、フェティッシュでないということはありえない。
 チンコの生えた女性声優は、無論、堀江由衣が最初というわけではない。堀江由衣股間から天空へと屹立する雄渾な肉槍を前に、我々は様々な声優を思い出してきた。矢島晶子渕崎ゆり子天野由梨久川綾。ある種のボーイッシュな部分、女として未成な部分の印象で我々を圧倒してきた、ファンム・ファタルたち。彼女らの欠如を充溢したチンコとして表象しうる、という発見、それが堀江由衣にはチンコが生えている、という言明の意義だ。堀江由衣登場以前には、彼女らの、ファリック・ガールとしての魅力は、明確には意識されることはなかった。まさに、遠近法的倒錯。堀江由衣のチンコ。それは近代声優批評の起源でこそあったのだ。
 さて、この偉大なる屹立には、しかしひとつ問題がある。誰もそれを目の当たりにしたものがいないということだ。声を聞けば、そこにそれがあることはわかる。仮に堀江由子の愛人なる人物が、彼女の股間にはビラビラのはみ出た卑猥なワギナのあるのみだ、と報告したとしても、それはなんの問題にもならない。メディア的身体にチンコを生やしめる天使的存在感こそが裸の堀江由衣であり、由子の肉体はこの際無関係だからだ。
 それではこのげんしけんの企画趣旨にそぐわぬ、と読者は思うも知れぬ。だが、眼球だけが我らの視覚ではないことを、努々忘れてはなるまい。我々孤独な声ヲタの心象、虚妄のエコロケーションがもたらすバーチャルな海底図には、確かに堀江由衣のモノは見える。サン・テグジュペリも言っている。「いちばんだいじなものは、目に見えない」と。だから、我々は耳で見る。声ヲタだから。(郁)

井上麻里奈*首

彼女の首は僕に似ている。井上麻里奈が小顔かつ撫で肩であるために、その首の長さが強調されるとか、それが均整のとれた身体の中で目立つとか、そういうことはどうでもいい。無防備に晒された長い首(=人体の急所)が、まるで生命の象徴―肥大化した生感帯とでも呼ぼうか―のように我々の目に映り、それに触れて、ともすれば破壊して、みたいという欲求を喚起することも無視はできないし、首が逞しく妖艶な蛇や男の精力を吸い取る妖怪ろくろ首などのように思え、それに肉感的なエロティシズムを感じてしまうこともあるかもしれない。だが、それらも同じく、だ。井上麻里奈の首がエロいのは、なにより、彼女の首が僕の首に似ているからなのだ。我々、ナルシストにとって、フェティシズムの対象は自身である。だが、それを外部に、単なる思い込みでも、見出してしまうこともある。それが我々が彼女の首に惹かれる理由である。主観的にすぎる文章だろう。だが、フェチを他人に解説するなど!(由籠)

釘宮理恵*肋骨

女性声優を初めて眼前にしたとき、想像以上に小さくか細いという印象をもったことはないだろうか。私はサイン会で初めて間近で彼女を見た5年前の衝撃が忘れられない。いったいこの小さな身体からどうして甲高く力強いあの声が発せられるのか、人体の神秘に思いをはせずにいられなかったのだ。腹筋、横隔膜、肺、気道、声帯、口腔。現在の計算機技術をもってしても流体と発声器官の連成振動問題は正確に解けないため、声質が形作られる過程は詳細にはわからない。かように未知である発声器官の、特に源を守る肋骨は声優にとって特別な部位なのである。特に彼女の場合、あのか細い身体で特別な存在感を示しているに違いなく、えもいわれぬ神秘性が感じられるのだ。もしこの夏誰かの肋骨を見る機会があったときには、釘宮理恵アイデンティティを守る骨の姿を想像するのもオツだ。(のり)

相澤みちる*髪

エレガンスは、愛さぬ事の最も難しい概念のひとつだ。雅ともし訳したならば、それは文明の起源とさえ密接に連関する。都市こそは諸文明の種子にして子宮にして結晶なれば、都会的洗練を意味する雅=エレガンスを求めるのは、我ら文明人の本能と言っていい。
 しかして、獣性、洗練されることそのものを拒絶する野卑で力強い領域に、文明に骨の髄まで冒されたひ弱な我ら文明人がひきつけられる、というのも逆説的ながら動かしがたい真実であって、アーティフィシャルなるをもって旨とするアニメにその生身を叩き込む声優には、だからこそ、獣の臭いがあってほしい。
 相澤みちるの多すぎる髪からは、この獣の臭いがする。質より量、ひたすらに量。慣性恒温性を求めてひたすらに巨大化した竜脚類のごとき、大雑把という正しさ。野暮ったい髪型もこの正しさに逆らわない。この若き凶獣から、今後も僕らは目が離せない。(郁)

桑島法子*目

桑島法子は、いつも何かを凝視している。のっそりと、熊めいた前傾姿勢で、あるいは定規でも背中に当てているかのごとき直立姿勢で、彼女の瞬きせぬ大きな瞳は、ひた、と余人の目には映らぬ何かに向けられ続けている。その視線の鋭さが端正な目鼻立ちの印象をかすませ、尖った顎や耳、上唇は薄く下唇は厚く下方へのカーブの強い唇と相俟って、あの悪魔的な異貌を生み出しているのだ。岩手に生まれたから、声優になった。沖縄に生まれていれば、ノロになっていた。そのような霊性の印象が、彼女の大きな目にはつきまとう。あの目にはきっと我々凡愚には思いもよらぬ何かが映っているに違いない。少年時代には理解できなかった何かが、この歳になると理解できる、という事は多々ある。昔、私は幾原邦彦がアニメーション制作とは祭なのだ、と言ったその意味を理解せず、電波なオヤジだ、と思っただけであった。しかし、異貌にして異能の声優桑島法子との十数年が、やっと私の細い目をも見開かせてくれた。クリエイションとは、一般に、霊性の場だ。そうとしか呼べない理屈を越えた何かに関与されざるを得ない過程だ。なかんずく、声優とはそのようなクリエイションの儀式の最終段階、キャラクターに魂を吹き入れる、まさに作品のスピリチュアルな場を取り仕切る巫なのである。その巫の巫たるの所以が、あの目には、ある。無理矢理見開かされたかのごとき、あの大きさ、三白眼気味に小さな瞳の、いつも何かを畏れているかのごとき風情。それは、神を見てしまったものの目だ。神を見たものが、何を声ヲタごときを恐れる事があろう。何を声ヲタごときに媚びる事があろう。彼女は、垣間見える神、深淵、異界にだけ、憧れている。我らを深淵へと差し招くタナトスの呼び声。あの視線の鋭さと熱さが伝える、桑島の憧れはまさにそう形容するに相応しい。法子よ、十年遅れの草薙雄嵩、その目で我らを破滅へ導く笛を吹き続けてくれ!(郁)

豊口めぐみ*額

狭小住宅という言葉がある。十五坪以下の狭い土地に立てられた住宅をそう呼ぶのだが、豊口めぐみの額、彼女の小顔の上にしかも十二分以上どころでない広さをもって作りつけられたそれが呼ぶ感動は、まさに狭小住宅のそれに近い。豊口の168cmの堂々たる長身は、しかし、不思議なほど、長さこそ感じさせるものの大きさをは感じさせない。手足も首も細長く、頭も小さくて、どこにも、広い、とか、大きい、とか、そういう印象を与えるべき部分がないのだ。にもかかわらず、あの額。顔と殆ど同じ幅を取る、無理くりにもほどがある、ラディカルな設計。限定されたサイズ、己の限界の中で、どこまで機能を突き詰められるか。A‐4スカイホーク然り、ローバーミニ然り、機械工学の精髄が芸術と通底する瞬間の快が、あの額には溢れている。細長いのに、広い。そういう矛盾を可能ならしめた造化の奇蹟に、我々はゾクゾクするような機能美を感ずるのだ。(郁)

伊藤静*額

ムスリムは額にたこができるという。彼らにとって礼拝は五行の一つに数えられる大切な営みなのであるが、それを欠かさず行ってきたことの証、その名誉のたこなのだ。
 さてこのように額とは文化圏によっては口以上にものをいうキャンバスなのだが、伊藤静の額が我々に語りかけてくるものは何だろう。
 彼女はまずその広々とした十勝平野のごとき額を隠そうともしない。むしろ見せ付けるような髪型ですらある。顔のその他のパーツはなぜか不思議と顔の中心にひきつけられるような焦点を持つ。そして歯並びはまさに歯並び悪い子萌えを体現してくれている。このような不安定な顔の下三分の二を上三分の一のどっしりとした台形が支える。そのアンバランスさと安定感がかもし出す絶妙な均衡。さらに言えば相方であるところのナバすら支えうる輝きなのだ。彼女の額が語りかけるもの、それは顔の黄金比ルネサンスの訪れだったのかもしれない。(系)

平野綾*口

声優というものを表すのに口は、あるいは鼻の穴と同等にまず目に付く部位であろう。我々声ヲタの想像力が、直接暗い穴の中から湧き出てくる器官なのだ。また、性的なシンボルとしての側面も忘れるべきではない。下品な言い方で申し訳ないが、アソコとは下の口であり、上の口は上の膣ではない。我々を誘惑する蟲惑的な暗喩、それが口なのだ。
 平野綾を若手トップクラスと推す向きもある。フェティッシュな小文の中であるので、その是非は問わない。しかし、人はなぜこんな小娘に惹かれるのか。彼女を見たときに気付かざるを得ない点が二つ。一つはその光り輝く、分不相応に大きなおでこ。彼女の知性というものの表象である。そしてもう一つが口である。彼女の口を見ると恥ずかしながら涼宮ハルヒアヒル口というものを想起せずにいられない。ハルヒはよく喋る。おそらくキョンも彼女の部位でどこを一番良く見ているかといえばその大きな口ではないのか。神的なものを呼び込む力は彼女の口にあるのだから。そして平野綾の口であるが、その波打つアヒル口は誘蛾灯のようであり、そして破顔したときに現れるのはその大きくスクエアな口である。彼女は知っているのだ、人が何に惹き寄せられるかを。それは大きな黒い瞳と、大きな口、そして唇である。大きな瞳は彼女の意思を表す。そして大きな唇は彼女の傾城の素質を表しているのだ。傾城の美女というのはオトコの隙間に入り込む賢さをもつ女性である。彼女の唇には知性と獣性が共生しているのである。我々はこれから彼女に骨抜きにされるのだ。そのような恐怖に満ちた未来の記憶が、安全弁的にまだ危険ではないその唇に目をいかせる。文頭では想像力が湧き出る泉と書いた。しかし、我々は恐れるべきであったのだ。声ヲタの意思を飲み込むその深く暗い淵を。声ヲタへの死刑宣告としての平野綾の口はまさしく墓場なのである。あくまで口唇しか見てはいけない、いけなかったのだ。我々にはその内なるものを語る言葉を、未だ、持たない。(系)

堀江由衣*八重歯

声優誌のグラビアなどで堀江由衣の顔を見たとき、誰もがまずその八重歯に目を奪われる。たとえ口を閉じていたとしても、その存在感は隠しきれるものではない。グラビアなどでは口を閉じた写真が多く、ファンからは「八重歯をもっと見せて欲しい」といった意見をよく耳にする。本人が意識的に八重歯を隠そうとしているのか、ということに関しては一ファンとしては本人の考えや気持ちは分からないし、議論しようがない問題ではあるが、我々は何故堀江由衣の八重歯に惹かれるのだろうか、ということについては考えることができる。ここでは、生命の持つ非対称性という観点からこの問題を考えてみたい。人体は分かりやすい左右対称の例としてよく挙げられるが、実際の人間は完全に左右対称ではない。右利き左利きの違いや、心臓などの臓器の配置など、非対称を持っている。これについては堀江由衣の八重歯の存在からも明らかである。そもそも生体を構成するタンパク質はアミノ酸からできているが、もっとも単純な構造を持つグリシン以外はL体とD体という2つの鏡像異性体を持っている。鏡像異性体とは要するに、右手と左手のような関係である。普通に考えれば、生体中にL体とD体が50%ずつ含まれていそうなものだが、基本的にはL体のアミノ酸のみがタンパク質の構成成分として使用されている。これは地球上の全ての生命で共通である。つまり、生命はL体とD体を明確に区別しており、分子レベルの視点から見てみると、生命は非対称なのだ。古来エジプトの時代から人類はシンメトリーの持つ様式美に魅了されてきたが、これは人体の持っていない完全な左右対称への憧れから来る想像美に過ぎない。地球上の全ての生命に普遍的に存在している非対称性の持つ美しさ。堀江由衣の八重歯は、人体、ひいては生命の非対称性の美しさ、また自身の声の持つモノ性というアンバランスさを体現していると言えるのだ。(□)

井上麻里奈*首

井上麻里奈の長い首からは、蛇めいた印象を受ける。ヨーガでは、生命エネルギーたるクンダリーニを蛇に喩える。キリスト教の悪魔は、蛇の姿を借りてイブを誘惑した。蛇女優・毛利郁子の例を引くまでもなく、蛇は、隠微で淫靡な、いわば負のエネルギー、妖物的な女の業とでも言うべきものの象徴であり続けている。
 しかし、同時に、井上麻里奈の長い首は、その小さな頭とあいまって、すっきりと爽やかな印象にも繋がっている。実際、シルエットはシンプルになるのだ、長い、ということはある程度太い首に、小さな頭が乗っていれば。
 この、観念的な業の重たい印象と意匠的なシンプルさの軽い印象の矛盾こそ、井上麻里奈の最大の魅力だ。頭のよいオタク娘・井上麻里奈が隠し持つ、女の業の鋭い毒牙。裏切られたいという声ヲタの根源的な欲望をこれほど刺激する声優もそうはいない。(郁)

福圓美里*鼻

人体に穿たれた穴、尿道・膣・肛門・眼・耳・口・鼻の七種十箇所。前三種は排泄と生殖という隠されるべき事に直結するため隠され、後四種は外界の情報や物質を取り入れるため表に出される。然るに鼻の穴は眼・耳・口と異なり多くの場合人の目からは隠されており、相対しても相手の鼻の穴は見えない。そこから我々はわざわざ隠す穴でもなく常に衆目に晒されている穴でもない最も半端な穴として、しばしばその性に於ける役割を軽視しがちである。生殖において鼻が果たす役割は嗅覚という意味ではよく知られている。いわゆるフェロモンである。しかし鼻自体を性器として使うかというとよほど特殊なプレイでないと考えられまい。(実は眼も同様に、視覚という意味ではきわめて重要だが、眼窩や眼球自体を性器として使うとなると、これはもうどう考えても猟奇的である)
 それでは、鼻の穴が前を向いていたとすればどうだろうか?
 その問いを我々に叩き付ける存在が福圓美里である。女性の鼻の穴が見えているという状況に対し人は本能的に拒否反応を発し、彼女には性的魅力がないと判断したがる。
 だがちょっと待ってほしい。鼻の穴が見えているような女性は不細工だという観念に疑問を感じるのは私だけだろうか。余りにも開け広げな性の表現を、ただ下品と切り捨ててはいないか。鼻が現すエロスには、「隠されるべき穴が見えている」という「空白の神聖性」のメカニズムがある。実はこの「聖」に 繋がるモノこそが根源的な性であり、純粋なるが故に刺激が強く容易には受け入れられない。しかし福圓美里はそんなことにはお構いなくその未熟な性の輝きを持った声をして我々の内的領域に進入するのである。
 きちんとした心の準備もなしに内なるアニマに生々しく接触されるのは人によっては苦痛を伴うこともあるかもしれないが、なあに、かえって免疫力がつく。(蟹)

加藤英美里*乱杭歯

端正、という言葉が、加藤英美里には恐らく良く似合う。感情の追い方の細かい演技もそうだし、かすれの殆どない芯のある声もいかにもアニメヒロイン、という風情がある。81プロデュースでは数少ない生え抜きの若手期待株、というプロフィールも、彼女がまっとうな道を堂々と歩んでいくべき声優である事を示している。
 それは、ビジュアル面でも同様だ。まず、150cm台中ほどの身長。女性声優の大型化が進む昨今、女性声優の本来の適正サイズに収まっている事は、それだけで随分と好ましい印象を抱かせる。大きな目、顔全体を使う屈託のない笑顔、笑うと両頬の、左右対称の位置に出来るえくぼ。有体に言って可愛い。間近で見ると、殆ど恋に落ちてしまう。
 しかし、可愛いだけではやっていけないのが生き馬の目を抜く声優界。蝋人形的な、スタティックな端正さを越えた何か、がなければ、第一級の才能とは認められない。逸脱によってこそ、端正な構築はオルゴニックなエネルギーを帯び始めるのだから。
 芝居では、細かく裏声を叩き込むスタイルでこの逸脱を実現している。限界の低さを露呈させてしまう方法でなくはないが、今のところ大きな破綻を感じさせる事はない。ビジュアルにおいては、まさに乱杭歯と称すべき歯並びの悪さによって、この逸脱が達成されている。ここで注意しなければならないのは、加藤英美里の乱杭歯が、決して出っ歯ではない、というところだ。歯茎は多少長いが、あくまで多少。ただ、大きすぎる歯が乱雑に重なり合った状態になっているだけで、前方や下方への強烈なベクトルに統御されているわけではない。あるいは訓練された規律ある動きに見えかねない笑顔の、絶妙のアクセントたるべき無秩序として、必要十分なインパクトの分を、彼女の前歯は守っている。やはり、どこまでいっても端正な、加藤英美里は正統派美少女声優なのである。(郁)

生天目仁美*ナバ

声ヲタにとって「他者」と言えば、紛れもなくそれは声優という存在であろう。我々にとっての永遠の思考/志向の対象であり続けながらも、理解したと思ったその瞬間からするりと抜け出していってしまう。声ヲタとは絶望と同義であろうか。だがそれがわずかな希望であったとしても、覆しうるものがある。それがナバのナバである。
 さて、ナバのナバとは何であろうか。まずそれはナバの弛み切った肉として現れるものである。顔に、二の腕に、そして腹に。決して胸にはついてくれない、贅肉。十二分なカロリーの摂取が特別であった時代、あるいはその一日が日の出と日の入りで区切られていた時代、すなわち電化以前であれば、それはまさしく<美>そのものであったのだろう。しかし現代においてそれは怠惰、堕落の象徴である。ではナバは醜いか? そう醜いのだ。だがそんなことは些細な問題だ。我々はブスの仁美に恋をしているのではない、ナバのナバに恋をしているのだ。ここに来て「ナバ」という言葉は肉という衣を脱ぎ捨てて新たな<ナバ>として立ち表れてくる。肉という美しからざるものを直視せざるを得ない声ヲタ。これは元来苦痛であった。アニメでも売れっ子の彼女である。グラビアとしての露出機会も多い。しかしそれを直視するという行為、それ自体にこそ可能性が秘められているのだ。我々はそのナバに肉として以上のものを視る。ナバのナバをただの肉で留めさせておくことは出来ない。そのようにさせる衝動がナバにはある。それを直視せざるを得ないこと、これ自体が<ナバ>であったのだ。声優ビジュアル批評への場を提供する存在。ザルで水を救うような声優批評に残された可能性を与えてくれるもの、それがナバなのだ。
 ナバのナバとは何であったか。声優から声ヲタへの恩寵であったのだ。やはり声優とは声ヲタにとって絶対的な他者であったのか。しかして絶望は続く。(系)

製本終わりました。

こんにちは。あなたのわたしです。
本日、『声ヲタグランプリ Vol.3』印刷・製本を行ってきました。無事完成です。当日声優が大好きな皆様とお会いできることを楽しみにしております。
頒価は300円予定です。
インデックスとかあったほうがいいですよね。と思いますが、眠いので寝ます。他の谷部員の人がUPしてくれるかもしれません。期待。おやすみなさい。

それから今回谷部の外からも寄稿いただいています。
筍生活(http://d.hatena.ne.jp/UTSURO/)のUTSUROさま

過ぎ去ろうとしない過去(http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/)の北守さま
からレビューを1本ずつ頂いております。
UTSUROさまはご自身もサークル参加されてます。谷部のすぐ近くなのでいらっしゃる方はぜひどちらもごひいきに。
お待ちしております。