薄暮

 「僕、避難してきたんです」――そう、雉子波祐介は云った。
 『薄暮』は『blossom』、『Wake Up, Girls!』に続く、山本寛の「東北三部作」の最終章に当たるアニメ映画だ。本作は東日本大震災後の福島県いわき市を舞台に、静かに展開するボーイ・ミーツ・ガールものである。主演には桜田ひより、加藤清史郎という二人の非「アニメ声優」を配し、その周りを定評のある「アニメ声優」で固めた布陣は、見事に仕組まれている。よい声優劇は徒弟制と同僚制の両極を持っており、その間を揺れ動きながらある点に定まる。本作においては、桜田ひよりと加藤清史郎の同僚制を最大限に活かし、二人の丁々発止の掛け合いを引き出すために、「アニメ声優」が手を繋いで二人を囲み、二人のためのフォーラムを作っている。この徒弟制によるフォーラムの中で、二人は出逢い、互いに強く惹かれ合っていく。桜田ひよりの野暮ったさと加藤清史郎の上擦りは、地元民/寄留者という対抗関係を思わせ、いわきの重力に引き寄せられる必然性を暗示するとともに、フォルクの大地を喪失したかなしみを滲み出させる。二人は「アニメ」のために、否、「アニメ」に馴らされた耳のために調律されていない。だからこそ、朴訥な二人が確かにそこにいる、と思わされる。さらに一歩進んで、「アニメ声優」のサラウンド音響との落差によって、二人の凡庸とも言えるリアリティが際立たされる。監督自身が「アニメオタクと評論家の排斥」を宣言するだけのことはあって、流石に面目躍如の精巧な出来であった。
 このように、『薄暮』は音声面でも優れたアニメ映画だが、作家・山本寛の足跡を辿る旅という側面も無視できない。「ワーグナーに誓って」という序盤の台詞から、『Wake Up, Girls!』のファン名称(ワグナー)を想起する者は多いだろうが、それにとどまらず、劇中にはアニメオタク(もとい山本作品ウォッチャー)を釣り上げる「釣り針」があちこちに仕掛けられている。片山実波、久海菜々美、朝比奈みくる等々の幻影が、あたかも放射線量のように、ホットスポット的に現れては消えていく様は、アニメオタクに対する「犬笛」のようにも感じられる。この「犬笛」戦術を、山本寛のアンビヴァレントな感情の表れであるなどと感傷的に解釈することは控えるが、『薄暮』が山本寛のこれまでの言行を知らぬ者/知る者双方にとって魅力的な作品であることは否定できまい。
 「僕、避難してきたんです」――そう、雉子波祐介は云った。福島県いわき市を舞台に選んだ以上、誠実な態度を貫徹しようとするなら、原発事故に言及することは避けられない。宮城県を舞台にした『Wake Up, Girls!』では、震災における最大の脅威として描かれたのは「残酷な海」、すなわち津波だった。宮城県の人々にとって、震災からの復興とは何よりも津波からの復興を意味していた(宮城県沿岸部の女川原発福島第一原発のような顛末を迎えることはなかった)。津波で押し流され、更地になった大地にも、また建物が立つ。やがて人が集まり、街ができていく。「青葉は咲く 季節はかわっても 何度でも芽生える ちからを持ってる」、そして「明けない夜はない」とおイモちゃんたちが歌えるのは、舞台が宮城県だったからという事情が大きい。帰還困難区域で軽々にこんなことが言えるだろうか。「無邪気には言えない そこにある かなしみ」の質は、宮城県福島県で大きく異なっている。『薄暮』の毒にも薬にもならないプロットが映える理由はそこにある。直視したら参ってしまいそうな現実の中で、ささやかな日常が逃避的に描かれる。この52分間だけは劇場がまさにアジールになる。『薄暮』は『Wake Up, Girls!』が土地柄描けなかった「かなしみ」に寄り添おうとしている。『Wake Up, Girls!』を補完する作品として、鑑賞を強く薦めたい。
 2019年7月31日、福島第二原発廃炉が正式に決定された。しかし、廃炉までの道のりは気が遠くなるほど長い。廃炉ならぬ、山本寛の「廃業」も先送りにならないものだろうか。なんともままならぬことである。(Rasiel)