生天目仁美*ナバ

声ヲタにとって「他者」と言えば、紛れもなくそれは声優という存在であろう。我々にとっての永遠の思考/志向の対象であり続けながらも、理解したと思ったその瞬間からするりと抜け出していってしまう。声ヲタとは絶望と同義であろうか。だがそれがわずかな希望であったとしても、覆しうるものがある。それがナバのナバである。
 さて、ナバのナバとは何であろうか。まずそれはナバの弛み切った肉として現れるものである。顔に、二の腕に、そして腹に。決して胸にはついてくれない、贅肉。十二分なカロリーの摂取が特別であった時代、あるいはその一日が日の出と日の入りで区切られていた時代、すなわち電化以前であれば、それはまさしく<美>そのものであったのだろう。しかし現代においてそれは怠惰、堕落の象徴である。ではナバは醜いか? そう醜いのだ。だがそんなことは些細な問題だ。我々はブスの仁美に恋をしているのではない、ナバのナバに恋をしているのだ。ここに来て「ナバ」という言葉は肉という衣を脱ぎ捨てて新たな<ナバ>として立ち表れてくる。肉という美しからざるものを直視せざるを得ない声ヲタ。これは元来苦痛であった。アニメでも売れっ子の彼女である。グラビアとしての露出機会も多い。しかしそれを直視するという行為、それ自体にこそ可能性が秘められているのだ。我々はそのナバに肉として以上のものを視る。ナバのナバをただの肉で留めさせておくことは出来ない。そのようにさせる衝動がナバにはある。それを直視せざるを得ないこと、これ自体が<ナバ>であったのだ。声優ビジュアル批評への場を提供する存在。ザルで水を救うような声優批評に残された可能性を与えてくれるもの、それがナバなのだ。
 ナバのナバとは何であったか。声優から声ヲタへの恩寵であったのだ。やはり声優とは声ヲタにとって絶対的な他者であったのか。しかして絶望は続く。(系)